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zoom RSS 「私は花子。夫の親族に負けなかった」…って夫の祖母のハナシなんだけど〜その5〜

<<   作成日時 : 2015/11/04 13:51   >>

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つづきから


花子の物語りを書いていた途中で世界文化遺産の「三池炭坑・万田坑」に行ったもので、そちらを書いてて日があいてしまった。


最後まで書き上げねば。

今までのお話。


http://bibi07.at.webry.info/201510/article_30.html

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私は花子。


夫はA家の養子。
A家の養母は夫の伯母。



私が嫁いだ時にはA家の人は誰もおらず、夫の実両親とその兄妹たちがA家に巣くっていた。


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ハルビンの街並
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ハルビンで次男を亡くした私と夫・太郎。
意気消沈する中でも頑張っていた。





そんな日々の中、夫は体調を崩しはじめた。

ハルビンは日本の北海道あたりの緯度。
それでも大陸の寒さは日本とは違う。

夫の体調はよくならない。


夫がある日、言った。


「日本へ帰ろう」


私は即座に答えた。

「はい」





こうして夫は満鉄を退社し私たちは帰国した。

大東亜戦争の足音が近づいてきた頃だった。



満鉄からの退職金は「8000円」。

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註釈*昭和10年代はじめの貨幣価値はどのくらいなのだろう。
米の値段は変動するし、嗜好品の値段も変動するのでわからない。

当時の8000円は今でいうと1500万円ほどかな?わかる人は教えてね。

太郎の当時の年(35才)と住友銀行を辞めて満鉄にいったのかそこがわからないので、合算しているのか満鉄時代だけのかは不明。
年齢を考えたらけっこう多い退職金だね。
それだけ満鉄は儲かっていたのか。






私たちは懐かしいふる里に帰ってきた。

嬉しかった。
里の両親も元気だった。


ふる里の蜜柑畑。

輝く海。



このふる里に吹く風は大陸の乾いた風とはまったく違う。
ふる里の風を存分に吸えば夫も良くなるだろう。


嫁ぎ先のA家には、B家の夫の実母、夫の妹二人がそのまま住んでいた。

夫の弟たちはすでに一人立ちして弟たちはいなかった。
夫の実父は私たちが満州にいた時に亡くなった。




註釈*この3人がどうやって食べていたのかは不明。
売り食いかどうか。
でも、太郎の実母名義で土地を売った証文は今のところ無し。

夫の実父が太郎が満州にいた時に土地を売ったお金が貯まっていたのかも。


妹の一人は病弱で寝たり起きたり。
もう一人が働いていたのか、不明。




夫は結核だった。

そこまでひどくは無さそうだけど、隔離をしなくてはならない。


近くの温泉場のそばに小さな家を買って夫はそこで過ごした。

絵を描いたりバイオリンを弾いたりして夫は静かに過ごした。


わたしは夫の実母と妹二人、子ども二人のめんどうをみながら、夫の元へ通った。



註釈*退職金の証文の裏面に2度退職金をおろした記録がある。

500円を2度。
この家の費用か?

でも、それで終わり。
なんで全部おろさんかったんだろうね。

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ほどなく私は妊娠し、女の子を生んだ。
嬉しかった。




註釈*どんな時でも子どもってできるんだね、と親戚でも話題に。
もう、昔の事なので笑い話。
朝の連ドラでも主人公の姉さん(宮崎あおい)があんな状況で子どもできるんだもん。




このまま夫・太郎が良くなりみんなで暮らしていければ私は幸せだと思った。
夫はもう働かずともいい。


A家の土地などを売っていけば食べていけると思った。
米は小作からいくらでも入る。

夫の実母や妹たちを養ってもいけるだろう。






夫は夫の弟の子が生まれた時に名付けをしてやったり穏やかに暮らしていた。


註釈*この夫・太郎の弟というのが一番最初に出て来た「手紙をくれた」弟。
わたし(えありす)の夫の父の叔父で夫の父に「財産をもっとよこせ」としつこく手紙をやった人。




が、娘が生まれて二年後。


夫は急変し、帰らぬ人となった。

夫37才。

私は29才。



戦争が近づいていた。



つづく。



昔は肺病、つまり結核は不治の病。
「天皇の料理番」の主人公の兄さん(鈴木亮平)がやせこけて
亡くなったのも肺病。
うちの母の兄が20才で亡くなったのも肺病。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
今なら亡くなる病気ではないんですけれどね。でも昔は不治の病でしたよね。
伯母の夫も結核で32歳で亡くなりました。伯母は94歳で老衰で。
並んでる二人の遺影は孫と祖母みたいです。
もう一人の伯母は21歳で面疔で亡くなりました。今なら薬を塗るだけで癒るんですよね。

昔の人は達筆ですね。
仏壇の引き出しからいろいろなものが出てきました。曽祖父の時代のものが一番たくさんありました。
昔は大切なものは金庫だけでなく仏壇でも保管していたんですね。

祖母が亡くなった時、伯母と叔母が箪笥を開けたら綺麗な入れ物に入ったお札が出てきました。◯百円札でした。伯母たちが驚いていました。わたしがそのお金の説明をしましたら、伯母たちはびっくりして「大切にしまってないで戦中戦後に使ってくれていれば…」て。
そのお金は3人の娘の後に4番目でやっと長男を産んだ祖母に、姑である曽祖母がご褒美としてあげたものでした。その長男がわたしの父です。その経緯とお札の存在を知っていたのは、祖母から聞いていたわたしだけでした。

えありすさん、ドラマにもなるようなお話、まとめて本になさったらいかがですか^ ^

りょうこ
2015/11/05 15:58
ほんと、えありすさんは何でもとことん調べられるから、その探究心には脱帽です!

昔は結核で亡くなった方が多かったみたいですね。
抗生物質がなかったと言うことでしょうか?
のん子
2015/11/05 18:09
>りょうこさん

肺病なんて今は簡単に治るのに、ですね。
戦後すぐぐらいまで肺病で死ぬ人が多かったみたいです。
ペニシリンじゃなくてストレプトマイシンなんですね。
1944年だそう。
日本に普及したのはそのずっと後なんでしょうね。

りょうこさんのお宅はずっと同じ場所に家があるなら色々な古いものがたくさんあると思います。

うちは転勤族だし、夫も転勤族の子。
なかなか残っていません。
それでもこうして明治時代の証文から残ってますのでましなほうです。

是非、いろいろさぐって調べてみてください
写真をとりながら。

この花子さんの物語り、脚色して小説にでもするならもっと背景を調べないとだめですね。
現地に行ってみたりもっと人に聞き込まないと。
力不足です。
えありす
2015/11/05 18:21
>のん子さん

一族にけっこうな人数、結核で亡くなった人がいると思います。

ドラマの「仁」ではペニシリンでしたけど結核にはきかずストレプトマイシンしかきかないそうですって。

できたのが1944年。
普及したのはきっともっと後でしょうから、それまでは不治の病だったということでしょう。

医療の発達。
ほんと幸せですよね〜
えありす
2015/11/05 18:23

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