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zoom RSS 「私は花子。夫の親族に負けなかった」…って夫の祖母のハナシなんだけど〜その4〜

<<   作成日時 : 2015/10/27 20:47   >>

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つづき


その1
http://bibi07.at.webry.info/201510/article_27.html



その2
http://bibi07.at.webry.info/201510/article_28.html



その3
http://bibi07.at.webry.info/201510/article_29.html


わたし、えありすが夫の方の家系図の中の一人の女性に興味をもち焦点をあて、彼女目線でその半生を語ってみている。




夫の父方の祖母。


花子(仮名)のその人生。

明治生まれの花子という庶民が激動の時代をどう生きていたのか。
それを知りたかった。



この花子はあなたの祖母でもあるかも知れない。

または、あなたの母親や伯母の誰かかも知れない。



あの時代を生き抜いた人たちにはそれぞれの歴史がある、と。


さて、つづきから。



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私は花子。


明治の終わりの方に生まれた。



嫁いだ先は、夫・太郎が養子にいったA家。

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私が嫁いだ時にはすでにその家の人は故人になり、夫がその家の家長だった。


だけど、夫の実父がA家を牛耳って、土地財産などを売りB家一家10人が生活をしていた。


夫の実父からしてみれば、自分の姉の嫁ぎ先に二男を養子にやったのでその家の物はまるで自分の差配の自由になるとでも思っていたのだろう。


また、その姉も二男を養子にやって5年後には死亡。


夫・太郎にしてみればそこは伯母の嫁ぎ先。
全くの他人ではないので敷居は低かったはず。



そして、自分の実家が全員ここへ乗り込んできたのだから太郎にとっては名前だけかえてるだけで自分の家にいるような感覚。




A家の財産で夫の兄弟たちは学校に行き、教師などの職についていた。

この時点で、私が嫁いだA家は名だけ残りB家が完全にのっとっていたといえた。



註釈*太郎の養母が亡くなった時は太郎は9才。
太郎の実父が後見人として戸籍に記載されている。

太郎が成年になった時に後見人は終了。
太郎実父はこの後見人になっている10年ほどの間に、その立場を利用して土地などを売りまくっているとみえた。

太郎実父はわたし(えありす)の夫の曾祖父なんだけどね。


わたし(えありす)の母親の方にも同じような事があってたので、当時はそういうことは珍しくなかったみたい。





私は夫・太郎の満鉄への異動に帯同。


私は海を渡り、大連へ向かった。



註釈*大連までは昭和の初期、どうやって行ったのかは不明。
朝鮮半島の南「釜山」から陸路か。朝鮮半島の右側の付け根の「元山港」も考えられるが、九州からは遠回り。

船が無難かも。
博多まで行き、そこから大連行きの船が出ていたのか。



当時は朝鮮半島から満州一体が大日本帝国だったので行き来はそこまで難しいとは思えない。




満州の大連に着いた私はその街の大きさ、華やかさに圧倒されていた。

東京にも行ったことがなく田舎の町から出たことのない私には別世界。





*1933年(昭和8年)の大連の街の様子




観られない時は


https://youtu.be/5ED6MvQoXsc



註釈*太郎が満鉄でどんな仕事をしていたのか、また花子が満州・大連でどういう生活をしていたのかは不明。

当時の動画などをみると想像ができそう。




私はここで夫と共に新しい生活を始めた。

ほどなく私は第一子を妊娠。
長男が生まれた。

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註釈*この長男がわたし(えありす)の夫の父親。



私はこの子を守らねばならない。
この子がいずれ夫を継いでA家の家長になるのだから。





長男が生まれ私は大連の生活にも慣れてきた。


長男が一才を過ぎた頃、日本から連絡が入った。
夫・太郎の父親が亡くなった、と。



註釈*この時、太郎が一度帰国したのかは不明。


夫・太郎の父が亡くなりふる里では皆どうしているのだろうか。
夫の弟たちは一人立ち。

教師になりそれぞれの地域に赴任している。

夫の妹たちは3人。
一番上は嫁いで出ていっている。


残るのは妹二人。

一人は病弱で寝たり起きたり。
もう一人は妙齢だけど嫁ぐ予定はない。



そして夫の母。


註釈*太郎父が亡くなってから残された家族がどうやって生きていたのか不明。
太郎の教師をしている弟たちが、仕送りしていたのか、太郎が満州から仕送りしていたのか、不明。

それとも太郎の実父がやっていたようにA家の財産を売って食べていたのだろうか。

ただ、太郎実母が土地などを売った証文は未発見。




夫・太郎の父が亡くなって2年後、私たちに次男が生まれた。

大連での生活もだいぶ慣れてきて、二人の男の子の母として異境の地でも幸せだった。
故郷の田舎町にはない贅沢なものがこの街には溢れている。

若い私は街に出るたびにウキウキした。


満鉄の「ヤマトホテル」も素晴らしいと聞いている。

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だけど私たち夫婦に悲劇が訪れた。


次男が亡くなったのだ。

ハルビンの満鉄の病院で次男は私たちの願いむなしく息を引き取った。

一才3ヶ月。



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ハルビンのデパート
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註釈*花子と太郎夫婦は次男が生まれてからハルビンに移っていたとみえる。
「ハルビン」は「ハルピン」と呼ぶこともあるけど、発音からするとハルビンとか。

わたし(えありす)は「ハルピン」と呼んでいた。


次男は大連生まれ。
亡くなったのはハルビンの病院と戸籍にある。
死因は不明。

病院は満鉄の病院らしい。
巨大コンツェルンの満鉄はホテルから病院その他なんでも経営していた。


夫の父が生前「育った、ハルビンに行ってみたい」と言っていた。
夫の父の幼い頃の思い出はハルビン。


だが戸籍謄本には「大連生まれ」と書いてあったので
「夫(えありす夫)の父の記憶違い」だと思っていた。


が、次男の死亡場所が「ハルビン」の病院と記載されていることから、おそらく花子・太郎夫婦は移転したのだと推測。
合点がいった。


ハルビンにも満鉄の支社ができていたので、転勤したのかも。

死亡報告はハルビンの総領事「森島守人」が日本の太郎のふる里の役場に送ったことが戸籍謄本からうかがえる。

当時でもきちんと国勢調査をして人口や人口比率(日本人、シナ人、朝鮮人、ロシア人)なども調べていたそう。


満州人(漢族、満州族)----約3800万人---全体からの比率94.65%

日本人----約210万人---全体からの比率5.18%

その他外国人------約66000人----全体からの比率0.16%  




ハルビンは言うまでもなく、伊藤博文が安重根という朝鮮人のテロリストに暗殺された場所。


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*1940年頃のハルビン駅

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*ハルビンの様子

https://youtu.be/7Jl4S9tFJIs



この異郷の地で生まれた次男は祖国の地を踏む事もできず亡くなった。
次男が不憫でならなかった。

ハルビンで次男を荼毘にふし、いつか帰国する時はこの遺骨を祖国の墓におさめようと思った。


註釈*この頃までは子どもが亡くなるのは珍しくもなく、戸籍謄本をみると小さいうちに亡くなる子がけっこういる。
また、「肺病」(結核)にかかって死ぬ人も多かった。






満州事変(1931年・昭和6年)は、世情をますます不穏にしていく空気を作っていた。


世界恐慌。

リットン調査団。

国連は中立ではない判断。



有色人種唯一の独立国のわが祖国がだんだん窮地に立たされていくのは肌で感じていた。

大日本帝国の躍進は白人世界にとって面白くなかったのだろう。

でも、ここ満州ではシナ人も朝鮮人もロシア人も仲よくやっている。
小さないざこざはあったにせよ、私の国の人々は差別意識はない。

奴隷制度ももったことがないのが日本。
朝鮮の奴隷制度など数々の不備を整えたのも日本。


ここでの生活は悪くはない。
冬は恐ろしいほど寒いけど。





でも、やっぱり祖国日本が恋しい。
密柑山、海。



実家の親兄妹たちは元気だろうか。



祖国、日本も世界を相手に頑張っている。

私もここ、満州国で頑張って生きていくことを強く思っていた。





が…


夫が体調を崩しはじめたのはこの頃だった。





つづく




当時の満州の大都市はすごいんだね。
日本がどれだけ気合いを入れてたか、わかるわ。
当時は帝国主義が当たり前なんだね、
と思ったらぽちっとね。



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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
満鉄時代の出生証明書?
この時代でも書類がちゃんと残っているんですね〜

うちの一族は誰も満州などには行っていないし
祖父が日露戦争に行った事ぐらいしか知りません。
子供心に 勲章を一杯つけて写真におさまってる姿が
かっこいいなぁ〜と思っただけで
えありすさんの様に 当時を推し測る気持ちなど
なかったわ。

当時の一般の人々の暮らしが 何となくわかります。
えありすさんが 花子さんに被ります。
ノクターン
2015/10/28 17:32
>ノクターンさん

日本の戸籍のすごさは江戸時代まで軽く遡れるってことですね。

国内なら当然なんですけどなにせ満州。
大連は満州というより「関東州」(関東軍の関東です)。
どっちにしても内地ではないので、戸籍とかどうなってるのか、と思いました。

でも、きちんとしてるんですよね。
さすが日本。

お祖父様、日露戦争に行かれたんですね。
陸軍だったらあの旅順攻撃を生延びたのか、海軍なら日本海海戦を経験しているのか、話しをききたかったです。

うちは母の異母姉二人(母と親子ほど違う)が満州にいってました。

当時といってもついこの間のことかも知れませんね。
まだ当時の人が生きているんですもの。

この太郎の妹が100才過ぎてまだ生きています。
えありす
2015/10/28 18:30
うちの親戚等で満州の話は聞いたことがありません。
異国の地で暮らすって勇気が要ったでしょうね。
しかも戦争の足音が・・・
のん子
2015/10/28 18:36
>のん子さん

多分、地理的なこともあったのかもです。
九州からは朝鮮半島はすぐ近く。
しかも当時は朝鮮半島は日本。

満州も日本の傀儡国家(国家と承認されたかは曖昧だそう)。

満州がないとロシアにやられてたでそう。
大東亜戦争が始まる前。
そろそろきな臭くなって来る頃ですね。

えありす
2015/10/28 18:52
姑は大連生まれです。父親が満鉄に勤めていたようです。幼児期に帰国したから思い出というより、記憶が少しある、という感じです。でも、きれいな街だったわ、と言っていました。
わたしは病院で生まれたのよ、と自慢?していましたよ。
国内にいれば、お産婆さんが自宅へ来て…の時代ですものね。

ハルピンは寒かったでしょうね。
りょうこ
2015/10/28 21:15
>りょうこさん

りょうこさんのお姑さんとうちの舅は同じ頃、大連にいたかもですね。

当時は国内は産婆さん。
大連やハルビンのほうが病院は整っていたことでしょう。

かくいうわたしは産婆さんで生まれました。
母がいなかの実家に帰っていたので。
近くに大きな病院がなかったとかですって。

でも、当時満州で産婆さんがいたとは思えないのです。
産婆は個人。
個人で産婆をできる日本人がいたかどうか。

数字からみるとわかる日本人率の少なさ。
その中で産婆が多くいるとは思えませんよね。
それに満鉄は病院をもっていましたしね。
おそらく満鉄社員はかなり優遇されていたと思われます。

お姑さん、幼児期に帰国したとのこと。
よかったですね。
えありす
2015/10/28 21:44

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